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広島高等裁判所 昭和58年(ネ)122号 判決

控訴人 国

代理人 八木良一 永岡健治 ほか七名

被控訴人 坂本政登

主文

原判決を左のとおり変更する。

山口県熊毛郡平生町大字竪ヶ浜字東組所在の別紙図面クケコキクの各点を順次直線で結んだ範囲内の土地は被控訴人の所有であることを確認する。

被控訴人のその余の請求を棄却する。

訴訟費用は第一、二審を通じてこれを一〇分し、その九を被控訴人の、その余を控訴人の各負担とする。

事実

控訴人は、「原判決を取り消す。被控訴人の請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴人は、「本件控訴を棄却する。控訴費用は控訴人の負担とする。」との判決を求めた。

当事者双方の主張は、次のとおり付加するほか、原判決事実摘示のとおりであるから、これを引用する(ただし、原判決三枚目表七行目の「請求の趣旨」を「請求の原因」と訂正し、同末尾添付の別紙図面を本判決末尾添付の別紙図面と差し替える。)。

(被控訴人)

亡丈一は、大正一三年一月二五日訴外村谷吉介から二五二番及び二五三番の各土地及び地上建物を買い受けたが、その相当以前から本件土地の西側には納屋が、東側には土蔵が建てられていた。村谷は、明治四〇年一二月一九日福泉から二五三番の土地を買い受けているので、右土蔵は、翌四一年ごろには建築され、大正一四年初めごろ近所に移築されるまで本件土地上に存在していたのであつて、本件土地がかつて通路として利用されたことがあつたとしても、右建築より相当以前にその状態は途絶え、私人による排他的占有状態が長らく継続していたものである。また、本件土地の南側に隣接する二五五番の土地上にあつた家屋には、本件土地に面した出入口はなく、同家屋に居住していた訴外長岡及び同人より右土地及び地上家屋を譲り受けた訴外田熊正一は、南側玄関から公道に出入りしており、本件土地を通路として利用したことはない。したがつて、本件土地が公共用財産として維持されなくなつてもなんら支障のないものである。右のように、本件土地は、亡丈一が二五二番及び二五三番の各土地を取得した当時、既に長年月にわたつて、事実上公の目的に供されることなく放置され、公共用財産としての形態、機能を全く喪失し、私人による平穏かつ公然の占有状態が継続しており、これを公共用財産として維持すべき理由がなくなつていたから、黙示の公用廃止がなされていたものというべく、取得時効の対象となり得るものである。

(控訴人)

一  原判決事実摘示欄第二の四の2に記載のとおり、黙示の公用廃止を認むべき場合として掲記の四要件に適合する客観的事実状態は、自主占有開始前に存在しなければならないところ、同第二の二の3に記載のとおり、本件土地は、明治時代周辺土地の住人により通行の用に供されており、少くとも訴外福泉が二五三番の土地を訴外村谷に譲渡した明治四〇年一二月一九日ごろまでは右のような利用状況が継続していた。したがつて、訴外村谷が二五四番の土地上に土蔵を築造したとしても、それは、明治四一年以降のことであり、訴外村谷は、大正一三年一月二五日二五二番ないし二五四番の各土地を亡丈一に譲渡し、そのころ土蔵を他に移築したので、土蔵の存続期間は、一五年間にすぎない。しかも、右土蔵は、二五四番土地上に築造され、本件土地を全く侵奪していないか、仮に侵奪していたとしても、その東南部の一部分であつたにすぎず、長岡家では、土蔵築造後も引き続き本件土地を通路として利用していた。したがつて、亡丈一が二五二番及び二五三番の各土地を取得した大正一三年一月二五日当時、土蔵築造から一五、六年しか経過しておらず、しかもその間、本件土地は、長岡家及び村谷家の人々によつて利用されて来たのであり、かつ里道としての形態もその大部分が旧来と変らない状態であつたのであるから、前記黙示の公用廃止があつたものと認むべき要件に適合する客観的事実状態は、存在しておらず、黙示の公用廃止がなされていたものとはとうていいえない。

更に、公共用財産に対する取得時効は、当該物件が完全に公共性を喪失し、将来においても公共性を回復する可能性と必要性がないと判断される場合に限つて、黙示の公用廃止なる概念を用いて認められるものである。しかるに、本件土地は、もともとこれを包囲する二五二番ないし二五五番の各土地に居住する特定の人々の用に供されるための公共物であるという特性を有し、右特性を存続せしめながら今日に至り、現在においては、二五五番の土地の居住者である田熊家の人々が屎尿処理、プロパンガスボンベの取替え、勝手口への出入り、家屋の修理、清掃等に利用しており、その必要性は大である。しかして、右二五五番の土地は、南側里道及び本件土地(里道)以外公道に接しておらず、かつ南側里道は、現実には木が植えられるなどして通行不可能な状況にあるため、田熊方では、現在、同家南方の水路上に木材等を渡して仮設施設を施し、公道への通路を確保している。しかし、右のような状態は適法とはいえず、かつ水路管理上も支障があるのであるが、現在本件土地の利用権が明確にされないため、右仮設施設を黙認しているのであつて、右のように、現在仮に公路へ通ずる方途があるとしても、右が違法あるいは公益上支障があるものとして、右施設の撤去が要請され、ひいて本件土地の利用が再び必要となることが考えられるような場合には、本件土地は、なお公共用財産として維持されるべき理由がある。本件土地がもはや公共性を全く喪失し、将来これを維持する必要性が全くなくなつたものとはとうていいえないことが明らかであり、このような場合に黙示の公用廃止を認めることはできない。

二  亡丈一は、二五二番及び二五三番の各土地を買い受けた後、本件土地の東側に農具小屋を建築したが、右建築により通路が閉塞されることから長岡家と亡丈一との間で紛議が生じたところ、亡丈一は、右小屋(小屋の表側及び裏側とも開き戸になつており、中を通行できる構造になつていた。)内を他人が通行することを容認し、長岡家及び田熊家の人々は、裏出入口から出入りするため同小屋内を通行していたのであつて、亡丈一は、本件里道が存在することを知悉して他人の通行等に供されることを容認したうえで、小屋を建築したのであるから、本件土地を排他的独占的に使用、すなわち占有していたものではないし、また所有の意思を有していたものともいい難い。

証拠関係は、本件記録中の書証目録及び証人等目録(いずれも原審及び当審)記載のとおりであるから、これを引用する。

理由

一  原判決七枚目裏二行目から同一五枚目表六行目までに説示するところは、次のとおり補正するほか、当裁判所の認定判断と同じであるから、これをここに引用する。

(一)  原判決七枚目裏五行目の<証拠略>の次に<証拠略>を、同八枚目表三行目の「それが」の次に「二五三番の土地の西側に隣接する」を各加え、同四行目の「北東角」を「南東角」と、同六行目の「記載されている」を「記載されており、その東端は、二五三番及び二五四番の各土地の東側に接して南北方向に赤色で表示された道路と丁字形に交差するように表示されている。明治年間に作成された分間図(公図)に表示された、右二五三番の土地の南側にあるような赤色部分は、地盤国有の道路(里道)を示している」と、同九行目の「村谷某」を「村谷吉介」と各改め、同行目の「古く」の次に「明治三〇年以前に」を加え、同一〇行目の「町道側」を「二五三番及び二五四番の各土地の東側に接して南北に通じている町道(前記分間図に表示された南北方向の赤色部分に相当する。)側」と改め、同末行の「住んでいた。」の次に「二五二番及び二五三番の土地の南側にある二五五番及び二五六番の各土地上の建物には、長岡家の者が明治二〇年代ごろから居住していた。」を加える。

(二)  同裏二行目の「前記里道」を「二五三番の土地と二五四番ないし二五六番の各土地の間にあつた里道」と、同三行目末尾の「その」から同五行目の「となつた」までを「二五二番の土地及び地上の建物は、当初から村谷の所有であり、二五三番の土地及び地上の建物並びに二五四番の土地は、もと訴外福泉竹次郎(以下「福泉」という。)の所有であつたが、村谷は、明治四〇年一二月一九日右土地建物を同訴外人から買い受けた」と改め、同九枚目表九行目の「供されたが」の次に「(二五二番ないし二五四番の各土地の一筆地調査の際には、亡丈一が立会し、被控訴人は、右地籍図等を閲覧したが、亡丈一ないし被控訴人から右地籍図等に対し調査上の誤などがある旨の申出がなされたことはない。)」を、同九、一〇行目の「相応する」の次に「位置に」を各加える。

(三)  同裏二行目の「二五二番・二五三番」を「二五二番+二五三番」と改め、同五行目の「二五二番・」を削除し、同一〇行目及び末行の各「地積」を「実測地積」と各改め、同一〇枚目表二行目の「二五二番・」及び同六行目の「および」から同七行目の「あること」までを各削除し、同九行目の「原告」から「理由がない」までを「本件土地は、国所有の里道であり、二五二番及び二五三番の各土地の一部ではないと認めるのが相当である」と改める。

(四)  (編注・証拠関係の加入につき、省略)

(五)  同八、九行目の「二五二番・二五三番」を「二五二番+二五三番」と改め、同一一枚目表七行目の「そして」の次に「二五五番及び二五六番の各土地上にあつた長岡家の建物の玄関は、以前は母屋の西北部にあり、前記のとおり長岡家の人々も本件土地を通つて町道に出ていたが、」を、同九行目の「向いて」の次に「付け替えられて」を各加える。

(六)  同裏三行目の「土蔵があつたが」の次に「(右土蔵がいつ建築されたのか本件証拠上明らかでないが、村谷が二五三番の土地及び地上建物並びに二五四番の土地を福泉から買い受けた明治四〇年一二月一九日以降のことと推認される。)」を加え、同六行目の「四メートル強」を「四メートル弱」と、同一二枚目裏八行目の「と昭和」から同九行目の「謄本」までを「、<証拠略>」と各改める。

(七)  同一四枚目表一〇行目の「その位置」から同裏二行目までを「右建物は、明治二〇年代ごろから存在し、その位置も当時のままであるが、本件土地のうち別紙図面クケコキクの各点を順次直線で結んだ範囲内の部分(以下「本件敷地部分」という。)は、右建物の敷地として占有されて来た。しかし、右建物の所有者であつた村谷や亡丈一は、里道の所有者ないし管理者から本件敷地部分の明渡を求められたことはなく、長岡ら付近住民から本件敷地部分の占有について異議を述べられたこともなかつた。」と改める。

(八)  同八行目の「そこから」から同一五枚目表三行目までを次のとおり改める。

主としてそこから出入りしていた。しかし、長岡が養子に来てから数年間は、母屋の西北部にあつた裏出入口も利用されており、長岡家の人々は、裏出入口から母屋の西側にあつた納屋との間の通路に出て北に折れ、本件土地に出てこれを東進し、町道に出ていた(もつとも、前記のとおり土蔵の一部が本件土地内にはみ出していたので、その部分では、北側隣接地の二五三番の土地内に若干う回して進行していたものと推認される。)。その後、右裏出入口は閉ざされ、本件土地を日常通行することはなくなつたが、わら葺屋根の葺替え、生活用水を排水していた二五五番及び二五六番の各土地の北端を東西に流れる溝の清掃、家の回りの修理などの際には、本件土地を通行し利用していた。そして、本件土地上に建てられた前記農具小屋は、その東側及び西側とも二枚の開き戸になつており、東側の開き戸は、内側からかんぬきが掛けられるようになつていたが、かんぬきは、昼間ははずしてあり、長岡家の人々は、右農具小屋が建てられた後も右小屋の中を通り、必要な時には従来と同様本件土地を通行していた。田熊は、昭和三五年長岡から二五五番及び二五六番の各土地と地上の建物を買い受けて以来、長岡家の場合と同じように本件土地を利用して来た。田熊は、昭和四五年右建物を取り毀した上、右各土地を地盛りして建物を新築したが、その後も便所の汲み取り、台所、風呂場用プロパンガスボンベの取替えなどの際に本件土地を通行しており、依然として本件土地を利用する必要性がある。

二  ところで、本件土地は、国所有の里道であつて、直接に一般公衆の共同使用に供される国有財産(国有財産法三条二項二号)として公物(公共用物)に当たるが、被控訴人は、本件土地については、黙示的に公用が廃止されたものとして取得時効が完成した旨主張するので按ずるに、公物は、公用廃止によりその公物としての性質を失わない限り、取得時効の対象となり得ないが、公用廃止は、必ずしも行政主体の明示の意思表示を要するものではなく、黙示の意思表示でも足りると解されるところ、公共用財産について黙示的に公用が廃止されたものとして、取得時効が成立するためには、公共用財産が長年の間事実上公の目的に供されることなく放置され、公共用財産としての形態、機能を全く喪失し、その物のうえに他人の平穏かつ公然の占有が継続したが、そのため実際上公の目的が害されることもなく、もはやその物を公共用財産として維持すべき理由がなくなつたとの要件が必要であり、右要件に適合する客観的状況は、時効の基礎となる自主占有開始の時点までに存在していることを要するものと解するのが相当である(最高裁昭和五一年一二月二四日第二小法廷判決、民集三〇・一一・一一〇四参照)。

これを本件についてみるに、前記認定の事実によれば、本件土地のうち本件敷地部分は、明治二〇年代ごろから引き続いて村谷ないし亡丈一所有の建物の敷地となつていたもので、長年の間事実上公の目的に供されることなく放置され、里道としての形態・機能を全く喪失し、同人らは、本件敷地部分につき平穏公然に占有を継続して来たのであり、そのために実際上公の目的が害されるようなこともなく、もはやこれを公共用財産として維持すべき理由はなくなつたものと認められるから、右部分については、亡丈一が二五二番及び二五三番の各土地と地上建物を買い受けた大正一三年一月二五日当時、既に黙示的に公用が廃止されていたものというべきである。しかして、亡丈一は、右買受け以来、本件敷地部分を買受け建物の敷地として所有の意思をもつて平穏かつ公然に占有したから、二〇年が経過した昭和一九年一月二五日取得時効が完成したものというべきである。そして、亡丈一が昭和五〇年一一月二一日死亡し、被控訴人が相続したことが弁論の全趣旨により認められ、被控訴人が昭和五六年七月一七日の原審第二二回口頭弁論期日において右時効を援用したことが明らかである。したがつて、被控訴人は、本件敷地部分の所有権を時効により取得したものといわねばならない。

しかしながら、本件土地のうち本件敷地部分を除くその余の部分(以下「本件通路部分」という。)は、明治時代からこれに面する宅地の居住者である長岡家の人々らの一般通行の用に供されて来ており、長岡家の人々は、長岡が養子になつた大正一〇年ごろから数年間は、本件通路部分を日常通行しており、その後、長岡家の人々が本件通路部分を日常通路として使用することはなくなつたが、なお、長岡家では、屋根の葺替え、溝掃除、家の修繕などの際には、本件通路部分を通行して利用しており、田熊も右同様利用し、現在なお、便所の汲取り、プロパンガスボンベの取替えなどの際に利用しているのであつて、右に照らすと、被控訴人が亡丈一において本件土地の自主占有を開始したと主張する大正一三年一月二五日の時点においては勿論、その後の時効期間進行中においても、里道である本件通路部分につき黙示的に公用が廃止されたものと評価しうるような前記要件に適合する客観的状況が存在していたと認めるのは困難であるといわざるを得ない(本件通路部分上に土蔵の一部及び農具小屋が建てられていたことは、前認定のとおりであるが、本件通路部分の利用状況に照らすと、右土蔵等の存在は、右認定判断を左右するものではないというべきである。)。

したがつて、本件通路部分についての被控訴人の取得時効の主張は、その余の点について判断するまでもなく、理由がないといわざるを得ない。

三  以上の説示に照らすと、被控訴人の本訴請求は、本件敷地部分につき所有権確認を求める限度において理由があるから認容し、その余は、失当として棄却すべく、被控訴人の請求を全部認容した原判決は、不当であるから、これを右のとおり変更することとし、訴訟費用の負担につき民訴法九六条、九二条、八九条を適用し主文のとおり判決する。

(裁判官 村上博巳 弘重一明 高升五十雄)

図面〈省略〉

(参考)第一審(山口地裁柳井支部昭和五〇年(ワ)第一四号 昭和五八年三月二五日判決)

主文

1 別紙図面記載のア・イ・ウ・エ・オ・カ・キ・アの各点を順次結んだ線により囲まれた範囲の土地は、原告の所有であることを確認する。

2 訴訟費用は被告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一 請求の趣旨

主文と同旨の判決。

二 請求の趣旨に対する答弁

1 原告の請求を棄却する。

2 訴訟費用は原告の負担とする。

第二当事者の主張

一 請求の原因

1 原告は、山口県熊毛郡平生町大字竪ヶ浜字東組二五二番宅地二八四・二九平方メートル及び同所二五三番宅地二二四・七九平方メートル(以下二五二番・二五三番の土地という)を所有している。

2 別紙図面記載のア・イ・ウ・エ・オ・カ・キ・アの各点を順次結んだ線により囲まれた範囲の土地(以下本件土地という)は、山口地方法務局柳井出張所備付の地籍図に赤色で表示された部分であるが、本件土地は里道ではなく、原告所有の二五二番・二五三番の土地の一部である。

3 仮りに右2の事実が認められないとしても、原告の父訴外亡坂本丈一(以下亡丈一という)が大正一三年一月二五日、二五二番・二五三番の土地の当時の所有者である訴外村谷吉介から買い受けて以来、亡丈一は本件土地部分が右土地の一部であつてその所有であると信じて、本件土地上に倉庫・農具小屋などを建てて占有し、昭和一九年一月二五日をもつて二〇年を経過した。亡丈一は昭和五〇年一月二一日死亡し、原告が相続した。原告は、昭和五六年七月一七日の第二二回口頭弁論期日において同日付準備書面の陳述をもつて亡丈一の右取得時効を援用する意思表示をした。

4 しかるに被告は、本件土地を国の所有であると主張するので、請求の趣旨記載のとおりその確認を求める。

二 請求の趣旨に対する答弁

1 請求原因1の事実は認める。

2 同2の事実は否認する。本件土地は、国有財産法三条二項二号の公共用財産として建設大臣が所管し、同法九条三項に基づき建設省所管国有財産取扱規則三条により山口県知事が機関委任を受け建設省所管国有財産として管理している、いわゆる里道といわれる道路として一般公共の用に供されている土地である。

3 同3の事実は否認する。本件土地は二五二番・二五三番の土地と熊毛郡平生町大字竪ヶ浜字東組二五四番・同二五五番(以下いずれも地番のみで表示する)の両土地の間に存在する里道である。二五二番・二五三番の土地には現在原告宅が存在するが、以前は長屋状の三軒の家が右里道に沿つて建てられ、町道側から順に福泉・池内・千年なる氏の住人が居住し、更に里道の突き当りには他に一軒家屋があつて村谷なるものが居住していた。そして右住人ら及び二五五番の土地に居住していた長岡は、町道に出入のため里道を利用するとともに二五四番の一角に存在していた共同井戸を使用するため里道を通行していた。長岡家はもと里道側に表出入口があつて、出入口の変更後は通路として利用しなくなつたが、溝さらえ・家の掃除・屋根のふき替えなどの際に利用して来た。そして長岡から土地家屋を取得した田熊正一もプロパンガスの搬出や便所のくみ取りのため通路として必要としながら利用して現在に至つている。仮りに原告宅住人のみが利用するにすぎないとしても、通路として現に通行しているものであつて里道としての機能を全く喪失したものではない。

三 原告の主張

1 被告は、本件土地を里道と主張するけれども、本件土地上の西側部分には原告所有家屋があるのであるから、右現況に照らして作成すべき公図になんら現地を測量することなく里道があるものとして明治一〇年ころ作成された旧図面に基づき里道を記入作成した公図の表示は国土調査法からみて違法である。そして右公図によると、右里道の道幅を一メートル長さを二二・四〇メートルとし、直線となつているが、旧図面では直線となつておらず、どのようにして公図のような表示がなされたのかその経緯が明らかでなく、被告の主張はその根拠が不十分である。

2 本件土地が仮りにもと里道であつたとしても、遅くとも亡丈一が占有を開始した大正一三年一月二五日ごろまでには里道としての用途を廃止し、宅地として以後倉庫・農具小屋の敷地として使用され、被告あるいはその管理者もこのような事態に対してなんらの手段を講ずることなく放置し、黙認してきたものであるから、黙示的に公用が廃止されたというべきで、取得時効の成立がある。

四 原告の主張に対する被告の反論

1 被告の主張する里道は、山口地方法務局柳井出張所備付の公図(乙第一号証はその写である)に二五二番の土地に通ずる里道として二五二番・二五三番の土地と二五四番・二五五番の土地の間に境界を接して存在する地番の付されていない赤塗りによる表示をされた部分である。そして乙第一号証の図面は、その作成された当時の測量技術等から必ずしも高度な精度を有するものといえないまでも、一筆の土地の所在位置・土地の配列を表わすことについては公証的役割を果たしている。乙第二号証の図面は、熊毛郡平生町が昭和三七年から同四一年までの間に実施した国土調査法に基づく地籍調査において乙第一号証を基礎とした調査素図に基づき現地を調査測量し、その成果(成果図及び成果簿)を関係住民に閲覧(<証拠略>)に供した後右法に基づき山口県知事の認証を経た、各筆の土地について地番・地目・筆界・地積等を表わした図面であり、右地籍調査が完了した地域においては、乙第一号証に代わり公図として閲覧に供されている図面である。よつて、本件里道は、地籍調査終了後は乙第二号証によつてその位置・形状・筆界・地積等を明らかにするものである。

2 公共用財産について黙示の公用廃止を認めて取得時効の対象となしうるためには、〈1〉長年の間事実上公の目的に供用されることなく放置され、〈2〉公共用財産としての形態機能を全く喪失し、〈3〉その物の上に他人の平穏かつ公然の占有が継続したが、そのため実際上公の目的が害されることなく、〈4〉もはやその物を公共用財産として維持すべき理由がなくなつたとの要件が必要とされる。そもそも公共用地、特に里道あるいは水路のごとき、公衆の一般利便のために一般の自由な使用に委ねられている物は、一般民有地のような排他的な占有管理がとれないため、一般の利用の状態が時代の進展に伴い変動を免れないが、その結果私人の侵奪を看過してしまうおそれが大きく、とすれば公共財産の確保という見地からも黙示の公用廃止を認めるうえでの前記要件は厳格に守られるべきであり、加えて右要件は、時効の基礎となる自主占有開始の時点までにすでにこれに適合する客観的状況が存在していたことを要し、占有開始後時効期間進行中にはじめて右要件を具備したというだけでは足りない。そして本件土地に関しては前記二請求原因に対する認否3に記載したとおり、右要件を充足しているとはいえない。

第三証拠 <略>

理由

一 請求原因1の事実は当事者間に争いがない。そこで同2の事実につき検討する。

<証拠略>を総合すると次の事実が認められ、この認定に反する<証拠略>はいずれも前掲各証拠に照らしてにわかに措信しがたく、他に右認定を覆えすに足りる証拠はない。

1 山口地方法務局柳井出張所備付の分間図(乙第一号証)には原告所有の二五三番の土地の南側に接して赤線で表示されたいわゆる里道の記載があり、それが原告所有の二五二番の土地の北東角に至るまで記載されている。そして右里道は北側を二五三番の土地に接し、南側を二五四番・二五五番・二五六番の土地に接する位置に記載されている。

2 原告の父亡丈一は、大正一三年一月二五日、二五二番・二五三番・二五四番の各土地(宅地)と二五二番・二五三番の土地上の建物を村谷某(以下村谷という)から買い受けたが、古くは二五二番・二五三番の土地上に町道側から長屋式の建物、その奥にさらに一軒の建物があり、長屋式建物には福泉・池内・ちとせなる氏の者らが住み、奥の建物には村谷が住んでいた。そして二五四番の土地の一角には共同の井戸があり、右福泉らが右井戸を利用するとともに町道に至る通路として前記里道を通行していた(右里道のほか町道に通ずる道路はない)。その後右三筆の土地とその土地上の建物はいずれも村谷の単独所有となつた(<証拠略>はいずれも二五二番・二五三番の土地の登記簿謄本であるが、二五二番の土地(町道からみて奥の土地)の旧所有者として村谷の、そして二五三番の土地(町道側の土地)の旧所有者として福泉・村谷なる名前が見られる)。そして大正一三年一月二五日に前記のとおり亡丈一が右三筆の土地と二五二番地・二五三番地上の建物を村谷から買い受け、同所で居住するようになつた。

3 昭和三七年ころから本件土地を含む付近一帯の土地につき熊毛郡平生町が国土調査法に基づいて地籍調査をした。地籍調査は、分間図の写を作成しこれを調査素図(<証拠略>)とし、これに基づいて通常現地で隣接所有者の立会を得て筆界点に杭打して調査素図を現地に相応して修正した調査図を作成する一筆地調査を経たうえ、その後面積の測量をして地籍図・地籍簿を作成する調査である。右の調査を経た本件土地を含む大字竪ヶ浜の地籍図(<証拠略>、縦覧時の地籍図とある)・地籍簿が昭和三九年五月二五日から同年六月一四日まで平生町役場で一般の閲覧に供されたが、右地籍図には本件土地にほぼ相応する地番のない部分の記載がある。その後さらに山口県知事の認証を得たうえで登記の事務を掌る山口地方法務局柳井出張所に送付された。

4 右出張所備付の地籍図(乙第二号証)には、原告の所有する二五二番・二五三番の土地の南側に、そして二五四番・二五五番の土地の北側にそれぞれ接して細長い無番地の部分がある。右部分は、分間図(乙第一号証)の里道の記載とは形状においてやや異なるけれども、その位置関係、すなわち二五二番・二五三番の土地と二五四番・二五五番の土地とに挾まれる位置に存在する関係においては同一である。

5 原告の所有する二五二番・二五三番の土地の登記簿上の地積合計が五〇九・〇八平方メートル(<証拠略>参照)であるのに対し、前記地籍調査の際の右各土地の地積合計は五二三平方メートル(<証拠略>参照)で、前記里道の存在を前提とした地籍調査の地積合計の方が広い(少なくとも右各土地の登記簿上の地積合計を下回つていない)。

以上認定の各事実によれば、二五二番・二五三番の土地と二五四番・二五五番の土地に挾まれて里道が存在することは明らかである。そして原告は、本件土地が山口地方法務局柳井出張所備付の地籍図に赤色で表示された部分(現実には前記4のとおり乙第二号証の細長い無番地の部分)であることおよびそれが本件土地であることを前提としてそれが里道でなく原告の所有する二五二番・二五三番の土地の一部であると主張するが、右認定の事実によれば原告の右主張は前提を欠き理由がない。

二 そこで以下請求原因3の事実につき検討する。<証拠略>を総合すると、

1 山口地方法務局柳井出張所備付の地籍図(乙第二号証)の二五二番・二五三番の土地と二五四番・二五五番の土地に挾まれた細長い無番地の部分(この部分が本件で問題となつている里道である)を現地に照らして作成した図面が<証拠略>であり、本件土地は、右里道のうち南側の訴外田熊正一方建物の北側コンクリート部分を除いたその余の部分である。

2 訴外長岡秀雄(以下長岡という)は、大正一〇年ころ長岡家の養子となり以後昭和三五年に訴外田熊正一(以下田熊という)に土地・建物を売り渡すまで、二五五番・二五六番の土地に居住した。長岡が養子に入る以前から、右各土地の北側に位置する二五二・二五三番及び東側に位置する二五四番の各土地は村谷の単独所有で、現実にも村谷だけが居住していた。そして長岡が養子に入つたときには、長岡家の建物の玄関は南側水路の方に向いており、右玄関から公道に達することができる状態にあつた。

3 亡丈一は、大正一三年一月二五日、村谷から二五二番ないし二五四番の各土地と二五二番・二五三番の土地上の建物を買い受け、それ以後同所で居住するようになつた。右売買当時、現在の原告方玄関の前付近で本件土地と二五四番の土地付近には村谷所有の土蔵があつたが、右土蔵は売買の対象とならなかつたため、大正一四年の初めころ同所から他に移された。右土蔵は現在も本件土地から町道を挾んだ付近に存在するが、その大きさは平面の一辺が四メートル強、他辺が五・六メートル強の長方形で、その出入口は五・六メートル強の側にあり、しかも右出入口にはそれに至る三段の石段が土蔵本体から外に少なくとも七〇センチメートル以上出ていたうえ、原告の建物の側すなわち北側に向いていた。

4 ところで、前記大きさをした右土蔵を乙第二号証(山口地方法務局柳井出張所備付の地籍図、縮尺五〇〇分の一)の二五四番の土地上に置いてみると、出入口前の石段を除く土蔵本体を完全に右土地上におさめること自体計数上やや困難である。またぎりぎりおさめることができたとしても、右土蔵の出入口に至る三段の石段は乙第二号証の図面に従うかぎり二五四番の土地上にはなく、その北側(原告方建物側)の本件土地上に、少なくとも七〇センチメートル以上は出ていた計算となる。なお右計算は、乙第二号証に基づくものであるが、乙第六号証(前記地籍調査により作成された地籍図の原図)には乙第二号証と異なり二五四番の土地の南東側の水路との間の無番地の部分の記載がなく、それだけ右土地の面積が広くなつており、それに従えば右土蔵が右土地上に十分おさまると考える余地がある。そして乙第二号証に乙第六号証と異なる前記部分の記載がなされたのは、乙第一号証(分間図)に二五四番の土地と南側水路との間の赤線(里道)の記載がありながら、現実には里道らしき部分はなく(<証拠略>)、昭和三七年ころの地籍調査の結果も同様であつたが、昭和四六年に至り錯誤を原因として二五四番地の地籍を五一平方メートルから三九・五五平方メートルに変更して右里道に相当する部分を地籍図(乙第二号証)に記載したものと推測される(<証拠略>)。しかし原告方建物は昭和三九年に玄関を町道側から現在のところに変えたほかは亡丈一が大正一三年一月二五日に買い受けたままで、その敷地である二五二番・二五三番の土地はもとより本件土地及び二五四番の土地の高さもすべて同じで、町道よりやや低い高さであつたこと、そして二五五番・二五六番の各土地も、昭和四五年に現在の田熊方建物を新築する際に地上げされるまでは前記三筆の土地と同じ高さにあり、右土地上にあつた旧田熊(長岡)宅建物の玄関から南側水路の土手まで約一メートルの高低差があつたこと、他方二五四番の土地には亡丈一が買い受けた当時すでに使われていなかつたが井戸の跡があり、その水路側には水路に沿つて四本くらいの松やその他の木が植えられていた。右事実からすれば、前記無番地の部分はもともと二五四番の土地とは高さの異なる南側水路のいわゆる土手で、それゆえ分間図上も赤色で表示されたものと推認され、加えて水路に沿つて隣接する二五五番・二五六番の土地が昭和四五年に地上げされるまで従来の建物が存在した事実に対比すれば右土手を削つて高さを等しくして前記土蔵の敷地としたとの事実を推測させる証拠が全くない本件にあつては、右無番地の部分を前記土蔵の敷地として乙第六号証に従つて計算することは困難であり結局前記認定を覆えすことはできない。とすると、亡丈一が村谷から二五二番ないし二五四番の各土地を買い受けた大正一三年一月二五日現在においてすでに本件里道の南側部分は、村谷所有の右土蔵の敷地として占有され、あるいは右土蔵の出入口に至る石段の敷地として少なくとも前記里道の七〇センチメートル以上は占有されていた。そして里道の幅は一メートル(乙第二号証参照)であるから事実上本件土地の里道としての効用は妨げられていた。

5 前記のとおり大正一四年初めころ、右土蔵が他に移されてすぐ亡丈一によりその敷地部分で本件土地を東西にふさぐ位置に原告方母屋にほぼ接して町道側に面する側が約三メートル、南側が約四メートルの長方形の瓦葺平家建の農具小屋が建てられた(<証拠略>中には、本件土地上に右農具小屋が存在したことを前提として右農具小屋の中を通り抜けて町道に至る旨の供述がある)。

6 右農具小屋は、昭和三九年に原告方母屋の西側に移築された。そのさらに西側には亡丈一が大正一三年一月二五日に買い受けた建物(現在は納屋)が現存し、その位置も当時のままであるが、本件土地が里道でありその長さが東西二二・四メートル(乙第一号証、乙第二号証)程度あるとした場合、少なくともその西端五メートル程度の範囲にわたりその一部北側部分はすでに右建物の敷地として占有されていた。

7 前記1のとおり、大正一〇年ころ長岡が養子となつて二五五番・二五六番の土地に居住を始めたころ、二五二番・二五三番の土地にはすでに村谷のみが居住しており、村谷家以外の者で本件土地を里道として利用するとすれば、長岡家の者のほか考えられないところ、当時すでに長岡家の玄関も南側水路の方に向いていてそこから出入りしていた(証人長岡秀雄は、概して被告側に有利な証言をするが、それでも長岡家の者も長岡が養子に来た二年後ぐらいからは本件土地を通路として利用したことはない旨明確に証言する)。その後大正一三年一月二五日、二五二番ないし二五四番の土地を買い受けた亡丈一において本件土地を右買受土地の一部として以後昭和五〇年一一月二一日の死亡まで、前記のとおり土蔵・農具小屋などの建物の敷地としてあるいはその余の空地として占有した。

以上の各事実が認められ、この認定に反する<証拠略>はいずれもにわかに措信できず、他に右認定を覆えすに足りる証拠はない。右事実によれば、亡丈一において大正一三年一月二五日以降二〇年以上にわたり所有の意思をもつて本件土地の占有を継続したことを認めることができる。なお、<証拠略>はいずれも亡丈一が二五二番ないし二五四番の土地を買い受けた大正一三年一月二五日以降も本件土地を通路として利用し、本件土地上に亡丈一所有の前記農具小屋が建てられた後も右農具小屋の中を通り抜けて町道に出た、さらに屋根のふき替え、溝の掃除、家の回りの修理などに利用して来た旨証言するが、本件土地を通路として利用して来たとの事実は前記認定に供した前掲各証拠に照らしてにわかに措信しがたく、また屋根のふき替え、溝の掃除あるいは家の回りの修理等に本件土地を利用することがあるとしても、これは事柄の性質上必ずしも毎日の作業とは考えられず、また右作業に本件土地を利用するとしても、それをもつて直ちに本件土地を通路として利用してきたものと評価することはできない。

ところで本件土地は、前記一のとおり二五二番・二五三番の土地と二五四番・二五五番の土地に挾まれた分間図上赤色で表示されたいわゆる里道に相当する部分である。そして里道は、公共用財産として国の所有に属するものであるけれども、本件里道は、亡丈一が占有を開始した大正一三年一月二五日において、前記認定のとおりすでにその一部にしろ土蔵などの建物の敷地あるいは土蔵の出入口に至る石段の敷地などとして占有され、その結果客観的には通路としての公の目的に供用される実質とその形態を失い、以後亡丈一所有の敷地あるいはその余の空地としての平穏かつ公然の占有が継続したが、それにより実際上公の目的が害されることなく経過したものであつて、もはや本件土地を里道として維持すべき理由はない。そうとすれば本件土地は本来里道に含まれ公共用物に属したものであるが、黙示的に里道としての公用が廃止されたものとみられ、亡丈一が本件土地の占有を開始した大正一三年一月二五日から二〇年を経過した昭和一九年一月二五日に本件土地を時効によつて取得したものといわねばならない。そして亡丈一が死亡し原告がその地位を相続したことは弁論の全趣旨から明らかであり、また原告が昭和五六年七月一七日の第二二回口頭弁論期日において同日付準備書面の陳述をもつて亡丈一の右取得時効の利益を援用する旨の意思表示をした事実は記録上明らかである。

三 以上の次第であつて結局原告の本訴請求は理由があるのでこれを正当として認容することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 長島孝太郎)

別紙図面 <略>

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